2016年9月7日水曜日

『アザだらけ』 - パトリック・オサリバン - Patrick O'Sullivan

お久しぶりです。

名選手であるパトリック・オサリバン選手からショッキングな記事が書かれました。

他人事と思える内容のようですが、とても身近で心当たりのある方も少なくないのではないでしょうか。

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 僕はよく父から酷く暴力を受けていた。

 驚かすつもりも無いし、別に注目を浴びたい訳でもない。単なる事実である。よく殴られた。子供を打つようにではなく、まるで大人相手の喧嘩であるかように。

 『児童虐待』と聞いて具体的な内容を把握することは難しい。第一に連想されることは、恐らく【鬱憤が溜まりに溜まり、押さえきれなくなってしまった】といった状況を連想するだろう。

 みんなは何度この台詞を耳にしたことがありますか?

『俺も子供の頃は親に打たれていたよ。まあ大丈夫だったけどね。』

 僕の幼少時代の事を話そう。5歳で初めてスケート靴を買って貰った日から毎日、僕はボコボコに殴られ続けた。

毎日練習や試合のあとには打たれた。ゴールを何点決めたにも関わらず。父は185センチ、体重は100キロ以上の大きな男だ。

車に入り瞬間から、暴力は始まる。時には駐車場で始まってしまう事もあった。


 僕が10歳になってから、虐待は酷くなった。タバコの火で根性焼きをされた。首を絞められた。未開封の炭酸飲料のカンを頭に投げつけられた。 

氷に乗る度、自分自身のプレーの内容で、練習、もしくは試合後の暴力の度合いが決まる事を知っていた。

ハットトリックを決めた後でさえ、車に戻れば、父に『まるで【ホモ野郎】の様だったぞ(父がよく使った言葉。これだけで彼がどのような男だったかがわかるだろう)』と罵声を浴びせられた。

僕はこれが普通だと思っていた。子供なんて何も知らない。朝五時に起こされ、登校する前に二時間程トレーニングをさせられた。重たい革製の縄跳びがあったのをよく覚えている。僕が頑張っていないと父が判断した時、僕は上を脱がされ、その縄で何度も打たれた。その縄跳びが近くにない時には、電気の延長コードで打たれた。

父はいつも僕が気を失う寸前に暴力を止めた。彼にとっての真の目的を果たせないからだ。僕が気を失ってしまったら、トレーニングが出来ないだろう?

妙に聞こえるのは承知の上だが、この身体的虐待の日常に、僕は耐えることを覚えた。良い日には、普通に打たれる。それに対しては、ある程度の準備というものができる。悪い日には、何が起こるかわからない。真夜中に理由もなく睡眠中起こされ、ボコボコにされることもあった。睡眠中は自分の世界に籠っている訳だからね、何の準備も出来やしない。何度か真冬にパジャマのまま家から出されたこともあった。理由は、「タフさが足りないから」だ。

父の虐待に関しては、延々と話続けることができるが、意味がない。僕の幼少時代の話をすると、いつも次の2つの事を聞かれる。

「なぜ自分の息子にそんな酷いことを?」

そして、

「なぜ誰も止めてくれなかったの?」

1つ目の質問の答えは簡単だ。父も元々アイスホッケー選手だったが、マイナーリーグより上には上り詰めることはできなかった。

父の叶わなかった夢を、息子に託した訳だ。彼の頭の中では、虐待は正当化されていた。全てはより良い選手になるため。最終的にはNHL選手になるため...

二つ目の質問の答えは、もっと複雑な問題だ。なぜ、誰も間に入り、虐待を止めてくれなかったのか。

僕のこの物語は、父の様な人間の心には決して響くことがないと思う。

父のような人たちは正常な人間が想像が出来ないほど闇深い場所にいて、もう手遅れなのだ。

多くの人たちが、この虐待を目の当たりにしていた。どの町にも、クレイジーなホッケーパパが居る。僕の父はクレイジーの域を遥かに越えていた。

僕はロッカールームにアザだらけ、傷だらけの状態で入り、父は試合中ずっとガラスをバンバン叩きながら叫び続けた。

他の親と何度も何度も喧嘩をしていた。

他の親たちからは、「大丈夫?」と少々心配されることはあったが、それ以上聞かれることはなかった。

そしてもちろん、僕は「うん、大丈夫。」と答えることしか出来なかった。

それで終わりだ。誰も警察を呼んでくれることは無かったし、誰も父に立ち向かってくれる事はなかった。

少し前まで、アイスホッケーのコミュニティーの中では、『家庭の中で起きることは、その家庭内の問題だ。』という心理が存在していた。

僕は自分の家の中でも無視をされていた。僕が10歳の時に起こった出来事を決して忘れることはない。

試合へ行くため家を出るとき、母が僕にこう言った。

今日はちゃんとプレーして来なさいよ。もし良く出来なかったら、今夜は酷い事になるわよ。」

その時僕は、母がいつか助けてくれるという微かな希望を失った。近所の人たちも何もしてくれない。チームの他の親たちも何もしてくれない。自分で止めるしかなかった。

10歳の子供としては、とても恐ろしい気持ちだ。いつか父親より大きくなって、立ち向かうことは出来るだろう。

それまでの残り6年程は耐えることに努めた。毎朝起きて、僕は「また一日が始まった。耐え続けよう。」 と考えた。


虐待は悪化し続け、僕は上達し続けた。本当に酷い事だ。誰も助けてくれなかった理由のひとつは、これだろう。僕は上達し続けたからだ。

更に言ってしまえば、父の行動を催促しているかのようでもあった。

他の親や、コーチはきっとこう思っていただろう。

「彼の父は狂っている。でも息子は氷上で一番うまい。それぐらいしないと、トッププレーヤーにはなれないのなもな」と。

実はというと、僕のキャリアと父の過剰なトレーニングには全く関係がない。氷上は僕にとって、安全な場所だった。氷上に乗ってるその二時間は、僕が唯一心から自由を感じられる時間だった。僕が氷上に乗れば、父から暴力を受けることはない。

そして、僕が子供の頃、この虐待の事を誰にも言わなかった一番の理由は、もし言ったら父に僕が一番大好きなアイスホッケーさえもを奪われてしまうと思ったからだ。

僕は16歳になり、オンタリオ・ホッケーリーグのドラフトで一位に選ばれた。その時点で虐待は終わったと思うかもしれないが、父の頭では「効果があった」と確信を与えてしまった。僕はNHLへの道を突き走っていた。そして虐待はさらに悪化した。

OHLでの一年目のある試合の後、僕はチームメートとバスに座って居たところに父が乗り込んできて、腕を捕まれ父の車に連れていかれた。

「終わりだ。ホッケーなんてやめてしまえ。お前にOHLは勿体ない。家に帰るぞ。」

父は家に向かって運転し始めた。そして僕の中の何かが切れた。

祖父の家に居た姉妹を迎えに行き、父が車を停めたとき、僕は車から飛び降りて、こう言った。

「もうやめてよ。僕は帰らない。」

僕は父と初めて喧嘩をした。僕は立ち向かい、やめることはなかった。

母と祖父母は窓の中から道路で喧嘩する僕らを見守った。

何分続いただろう。どうやって終わったかは覚えていないが、最後は父は車に乗り、どこかへ消えていった。僕は祖父母の家に駆けて、警察に電話をした。

警察が来て、父に逮捕状をだした。僕は父の写真を警察に渡して、「次の試合に来てください。必ず来ます。」

2試合後、父が現れた。父は警察にリンクで逮捕された。

警察へ必要な書類を提出したが、全ては書かずに、基本的なことだけを書いた。本当は何百ページも書けた。今思えば書けばよかった。

数ヵ月という短い期間で父は保釈され、僕から30メートル以内の範囲に立ち入ってはいけないと、禁止命令が下されたが、彼は僕の試合に来ることをやめることはなかった。

彼はいつも同じ場所に座り、僕を見ていた。

そして数年後、父の夢は叶った。僕は2003年にNHLのドラフトで2ラウンド目で選ばれた。

NHLはその日、僕のために監視員を就けてくれたが、意味は無かった。父は僕が見える場所に座っていた。

名前を呼ばれ、ミネソタ・ワイルドのユニフォームに腕を通した。父が会場にいるのは確実で、僕は怒りを覚えた。耐え続けた虐待に対してではなく、父が『自分のお陰だ』と思っていると知っていたからだ。

僕がNHLに入ったのは彼のお陰だと心から信じていて、このドラフトで彼の中で全てが正当化されたに違いない。

本当に可笑しな事だ。どうやって僕がNHLまで辿り着いたか本当の理由はこうだ。

週末に父から可能な限り離れた場所へ行った。スティックとボールだけを持って、家から一人で出た。

ディークして、ディークして、ディークをした。
シュートをして、シュートをして、シュートをし続けた。

何度も何度も続けた。スティックが僕の体の一部になるまで。

そうやって僕はNHLまで上り詰めた。

プロのレベルを一度経験して、ゲームの流れの速さを目の当たりにする。そして、走り込み、筋トレ、自主トレの量でこの真の問題は変わることはない。 

『アイスホッケーを理解しているか?本当にこのゲームを理解しきっているか?パックが次どこへ行くのかわかっているか?』

わかっていたとしても、そうでなくても。車で我が子に怒鳴る事で、次のレベルに上がれることはない。

12歳の子供に練習が終わった後に、10キロ走らせることで、子供がジョナサン・テイヴスになることはない。

スポーツにおいて才能があるか無いか判断するポイントは『楽しんでいるか、またクリエイティブになれているか』だ。

子供の時、
上達していると気が付いていない時、
それが上達している時だ。

もう一度言うが、12歳の子供に練習が終わった後に、10キロ走らせることで、子供がジョナサン・テイヴスになることはない。

多くの両親はそんな話聞きたくないだろう。正常な両親だとしてもだ。

実際、少年少女におけるホッケー界ではこういった事が当たり前とされている。

NHLでオフシーズンになると、ジムでダニエル・カーシロや他の友人選手達とトレーニングを行う。横を見ると12歳の子供が僕らと同じ二時間メニューを行っている。トレーナーに怒鳴られながら。親もその場に同伴し、同様に怒鳴っている。

はっきり言って、何の効果もないと思う。

これは本当にあった話だ。ドリュー・ダウティーがロサンゼルスでルーキーだった年に彼と一緒にプレーをした。キャンプへ来たとき、彼はベンチプレス一回もギリギリだった。

今としては笑える話だが、当時の彼のコンディションは最悪だった。少なくとも、古風な考え方の「コンディション」であればの話だが。

そして氷上に乗ればトッププレイヤーだ。

ダウティーは純粋に、このゲームにおいて抜群なビジョンと脳を持った天然アイスホッケー選手だ。

氷上でのアイスホッケーというスポーツにおけるコンディションはとても良かった。他の選手の何手先も見通す事ができる。

こういった才能を持っていてもいなくても、先程言ったようなハードなトレーニングは全てデタラメだ。

その上、こういったことで、僕の父が何年もの間そうだったように、他の親の前でも息子を動物のように扱っても「許されてしまう」文化の様なものが生まれてしまう。

事は駐車場で始まった。みんな見ていた。一言を勇気が無かっただけだ。

僕は決して父に向けてこの記事を書いている訳ではない。駐車場に居る人たちへ向けた記事である。

確かに、何か言ってしまうと、その人との人間関係が崩れるかもしれない。

他の親の前で恥ずかしい思いをするかもしれない。

警察署で報告書を書く手間もあるかもしれない。

みんな考えていることもわかる。

『もし自分が間違っていたらどうしよう。』

もし間違っていたら、それに越したことはない。

もしそうでなければ、その子供は自分の家で囚人であるということだ。

駐車場やロッカールームの前で、子供が捕まられていたり、怒鳴られていたり、車に突き飛ばされていたとして、それは氷山の一角に過ぎないだろう。

とても皮肉なことだ。ホッケー界ではタフさや勇気に関する話題が尽きない。

この世界の中でいう勇気とは、バッティングの前でビクリともせずに立つことであったり、乱闘でチームメイトをかばったりすることだ。

でもそんなの簡単なことだ。それは本当の勇気なんかじゃない。誰でもできることだ。

北アメリカの中で、僕と同じように氷上に乗る度に恐怖で溢れている子供は五万といるだろう。

今日はちゃんとプレーして来なさいよ。もし良く出来なかったら、今夜は酷い事になるわよ。

本当に一人の勘と行動で、その子供を守ることができる。それこそが真の勇気である。ホッケー界ではあまり尊重されていない種類の勇気である。


PATRICK O'SULLIVAN / CONTRIBUTOR