2015年7月10日金曜日

『戦い』 - リチャード・クローン


最近、嫌なニュースを多く目にします。
ストレスなど、色々な事情があるかと思います。

人間には「」と言ったとても複雑で面倒くさい感情が付いています。
助けを求めたいが、立場上、男だから、約束したから、恥ずかしいから、といった理由で
助けを求めることが出来ず、最悪の場合「」といった究極な選択をしてしまう時があります。

死ぬより、立場を失う事の方が怖いのでしょうか。
死ぬより、男らしさを捨てる事方が怖いのでしょうか。
死ぬより、約束を破る方が怖いのでしょうか。
死ぬより、恥ずかしい方が怖いのでしょうか。

考えすぎていると、舞い上がってしまう時があります。
酔っぱらっていると、舞い上がってしまう時があります。

考える事、お酒を飲む事は決して悪いことではありません。

ただ個人が抱えてるその問題が、最悪な状態な時に、
一人で考える、お酒を飲んで、舞い上がってしまう事は本当に怖いです。



日本ではマイナーなスポーツ;アイスホッケーを通してですが、
アルコール、薬物中毒という問題を通して、
アイスホッケーが関係無くても、問題がアルコール、薬物では無くても。
今、小さな問題、大きな問題、どんな問題でも抱えている人に読んで頂きたい。


この記事はNHLを4シーズン経験した現AHL選手のリチャード・クローン選手による、自叙記事です。
少々長いですが、今問題を抱えている方、




もしくは、そういった状況に置かれている人を知っている方、全ての方に読んで欲しい記事です。

問題を抱えることについて、そしてそれの解決方法について。
この記事をキッカケに少しでもみなさんの問題が解決に近づくことを願って、投稿致します。




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 クリニックのナース達は笑っていた。それほど酷い状態だった。NHLで初めてプレーオフを経験した数週後のことだった。23歳で夢の舞台に立ち、良い給料を貰いながら、僕はもうどうすることも出来ず、自分が倒れて死んでしまうか、誰かを殺してしまいそうな状態だった。

 予約の電話はしなかった。ロサンゼルスから、弟が大学に通っているボストン行きの飛行機に乗り、空港まで迎えに来てもらった。僕はただ「準備は出来た」と言った。弟にそこから10時間離れたトロントまで送ってもらった。リハビリ・センターまで。2年前来たのと同じ場所だ。2年前は4日間泊まり、「こんなの狂ってる!もう出て行く!」と叫んで、それっきりだ。受付に着くと、みんなは僕の事を覚えていた。きっと前に大きな印象を与えたからだ。みんなは笑っていた。僕が正気だと思っていないみたいだった。僕はここで初めて自分が抱えている症状を認め、泣き崩れて言った。「僕はアル中だ。薬中だ。本当だ。助けてくれ。

 天使はすぐに降りて来る事はなかった。バイオリンのクラシック音楽が流れ、フカフカな枕がある真っ白な部屋に放り込まれることは無かった。受付嬢に「書類を上に回すまで数日掛かります。」と言われた。自分の状態を認め、吐き出せた事で、僕が肩に抱えていた重すぎる荷物はすでに下されていた。デトックスのため病院へ送られ、3日間、書いてはいけない様な事を叫び、震え、吐き続けた。

 この時点で、もう読者のみんなは僕に偏見を持っているだろう。ツイッターやメディアでNHLの選手がアルコールや薬物で苦しんでる、と読んだことがある。彼らのストーリーは語れないが、僕のを伝えようと思う。

 以前の僕は、練習から帰り、昼食の頃にはお酒を飲み始めていた。ジュニアでプレーしていた頃から、NHLデビューした頃まで、オフの日には起きたらすぐ飲酒をしていた。毎日マリファナも吸っていた。19歳になった頃には、週1のペースでコカインを使っていた。オンタリオ、ニューハンプシャー、ロサンゼルスのバーで僕が笑ってジョークを言ったりしていたのを見た人は「見ろよ、幸せそうだな。」とでも言っていただろう。

 僕が朝5時に起きた時、枕が血だらけになっていた事なんて知りもしなかっただろう。

 次の日の練習には、笑顔で向かい、世界トップレベルでホッケーをした。何故こんなことをしたのか。僕は決して昔からこんな野蛮な人間だった訳ではない。高校では個人で芸術の授業を受け、タランティーノの映画を観るような子供だった。僕はハーバード大学でプレーをするはずだったが、親に頭を下げ、OHLに入った。そこで僕は母親と【絶対に乱闘をしない】と堅い約束をした。(当時のコーチは僕が乱闘しないことでいつも怒っていた。)OHLでは最も勤勉な選手に与えられるボビー・スミス賞を受賞した。僕はこれらの事を毎日、泥酔状態でこなした。飲むときは殆ど部屋で、一人で飲んでいた。

 僕は決して特別な存在ではない。今も、NHLで苦しんでいる選手はたくさん居て、ポイントの統計や練習での動きなどで見分ける事は出来ない。僕が19歳だった頃、リンクの外では落ちぶれていたが、30ゴールと80ポイントを挙げていた。数年を共にしたチームメイトやコーチには少々疑われていたが、誰も状態がここまで最悪だった事には気付いていなかった。僕はただ荒々しかった。ホッケーのチームには何人かは必ずいる。AHLで過ごした2008年のシーズンで、ダラス・スターズにドラフトされ、4日間続けてコカインでハイになっていた。ひと夏で7,8キロ痩せ、万事休す。家族会議が開かれ、もう逃れることは出来なかった。2人の弟の表情は忘れられない。僕は彼らにとってヒーローであり、親友であり、リーダーだった。そしてその時彼らの目には、怯えが見えた。


 何回失敗をした、犯罪を犯した、家族を泣かせた、なんて関係ない。何回チームメイトに「おしまい。もうやめる。」と伝えたかなんて関係ない。本当に良くなりたい、と思って行動に移すまでは、誰が何を言っても変わることは出来ない。

 その夏初めてリハビリ・センターに入ったが、僕は自分はアル中だと自覚がなかった。アル中は公園のベンチで気絶している様な人の事だと思っていたからだ。カウンセラーと面会するたび、「リッチ、お父さんとの関係について教えてくれないか?」「リッチ、最後に泣いたのはいつ?」などと聞かれた。ホッケー選手として、正直に話を出来る話題の領域を遥かに超えている。僕たちホッケー選手は、弱音を吐かない、痛みを見せない様に育てられたからだ。足が折れていたって、「よけろ、俺は出る」とトレーナーに怒鳴る。

  そして僕はカウンセラーと喧嘩をし、4日でその場を去った。

 読者のあなたはきっと、携帯やパソコンで今これを読んで、なんで?どうして?小さい頃から夢見た事を現実にさせて、全て台無しに出来るんだ?と思っているだろう。

 僕は怖かったからだ。僕は常に恐怖と隣合わせで生きていたからだ。まだ若くてバカだった頃から始まる。16歳の時にOHLに入るため家を出た。チームメイトのみんなは、僕は2,3歳上の人たちだけだった。髭を生やしていた。みんな男だった。この頃はまだ、指導上での暴力に対して甘い時代だった。幸い、チームメイトの一人、ダニエル・カーシロが僕を守ってくれた。暴力が行き過ぎないように毎回気を配ってくれていた。彼には感謝しきれない。だがすぐに、ジュニアの文化のようなもの、飲酒男らしさという美学に制圧された。日曜の試合の後はバーで飲んでいた。僕は16歳だった。今16歳の少年を見ると、「小さい人間だな。僕はいったい何をしていたんだろう。」と思う。僕は仮面を被り、恐怖と戦った。

 一番怖いのは、19歳だった時に僕は、自分がかつて一番嫌いだった人間になっていた事だ。僕は年上になり、ルーキーの少年達に色んな事をさせていた。一度仮面を被ってしまうと、もう取れない。ドラフトされて契約を結んだ時、契約のプレッシャーと戦うために仮面を被った。契約が終わると、相手の195㎝の怪物と乱闘しなければならない恐怖と不眠症と戦うため、仮面を被る。やっとNHLのジャージを着た時は、一瞬で全て終わってしまうかも知れないという絶え間のない恐怖と戦うために、また仮面を被った。

  15歳~24歳の間、僕は居なかった。僕は不在だった。僕は存在しなかった。プロ・ホッケー選手であるリッチ・クローンが存在した。彼は150回乱闘をし、飲酒運転を繰り返し、女を追いかけ、笑い、泣き、無意識的に生きていた。だが、芸術、映画と読書、人生について深く考えるのが大好きだった少年のリッチ・クローンは居なかった。彼はプレッシャーに耐えられなかった。

 そしてある日、彼は起きた。ロサンゼルスのGM;ロン・ヘクスタールに「リッチ、誰か助けてくれる人を紹介しようか?」と言ってくれた時ではない。両親にお願いされた100万回目の時でもない。映画の様にはいかなかった。ある日突然目を覚ました。もううんざりだった。

 多くの選手たちは残念な結果になってしまった。僕たちはこれまでに、憂欝の闇、薬物や飲酒で多すぎる程の男たちを亡くしてきた。スティーブ・モンタドールリック・ライピエンデレック・ブーガードウェイド・ビーラック。僕は彼らの多くを良く知っていた。彼らとは何度も乱闘をした。彼らの多くの本当に良い人たちだった。僕は彼らに近親感を抱いていた。僕がファイターだったからではない。僕は生まれつきファイターだった訳ではない。彼らもだ。誰も少年の頃にストリート・ホッケーをして、ファイターとしてスタンレーカップを優勝する夢なんて見ていなかったはずだ。みんな、決勝のゴールを決める事を夢見ていたはずだ。

 だがしかし。人生は邪魔をする。育つ環境によって変わってしまう。僕が7歳だった頃、ほぼ毎日放課後にストリート・ホッケーをしていた。町内の少年、みんなが集まった。7歳から13歳位の少年達だ。冬になり、緑石側まで雪が積もれば、ボディーチェック有りの実践的なホッケーをした。雪山の横を通れば、ボールを持っていなくてもぶっ飛ばされた。当時7歳だった僕は13歳の少年に毎日毎日チェックされていた。僕は毎日泣きながら帰宅した。

 ある日の午後、雪の山に飛ばされて100回目の時、僕の中で何かが切れた。立ち上がり、僕は彼に走り寄り、背後からスティックで思い切り足をスラッシュした。13歳の少年は倒れ、泣き叫んだ。試合は中断され、みんな僕を悪魔であるかの様に睨んだ。僕は全速力で家に走り、部屋にこもった。

 その晩、父親がそれを知り、ひどく叱られ、みんなの前でその13歳の少年に謝らせた。僕は父の表情が変わったのを見た。父は僕に謝らせていたが、僕が年上のいじめっ子に立ち向かった事を誇らしく思っていた。他の少年達の表情も同じように変わった。

 それから、誰も僕をいじめるような事はなかった。これが僕のフィジカルなスタイルの始まりだった。誰もファイターとして生まれてこないが、環境によって変わる。

 僕はファイターになんてなりたくなかった。野蛮な男にも、いじめにもなりたくなかった。もちろん、アル中になんかなりたくなかった。だが僕らはみんな生き残るために仮面を被る。何百人ものホッケー選手がこれを読むだろう。高校生、ジュニアの選手、大学生、マイナーリーグ、NHLの選手で毎日飲酒であらゆる恐怖を制圧させている人たち。もしあなたがその人であれば、僕が書いた言葉が、あなたが助けを求めるキッカケになる事は無いだろう。だが、一度地獄に落ちて戻ってきた人間の僕が言う事を聞いてほしい。僕はもう5年シラフだ。僕がこうである事に対し、NHLのロッカーでも、どこでも、文句を言ったり差別された事は一度もない。

 これは嘘じゃない。

 ナッシュビル・プレデターズでの一年目、僕は完全にシラフだった。何試合目かに、僕は口元にエルボーを食らった。歯が一列折れた。30針を縫った。物を口にするたびに叫びたくなるほど痛かった。寝られなかった。考える事も出来なかった。イブプロイフェン(腫れ止め、炎症止め)は全く効かなかった。シラフで居続けたかった為、痛み止めは拒否した。麻酔として、あへん剤を使う事も出来たが、キッカケになってしまうのが怖くて使わなかった。発狂してしまいそうだった。





 僕は仕事を失うのがとても怖かった。医者には1ヵ月間フェイスギアを付けるよう命じられた。それはNHLの暗黙のルールで、乱闘が出来なかった。プレデターズにはファイターとして雇われ、それが僕の役目だった。毎日記者には、フェイスギアはいつ取れるんだ、と聞かれた。

 僕は歯医者にリンクまで来てもらい、麻酔を打っていた。「どうなってもいい、口を閉められるようにしてくれ」、と言った。残念な事に、傷が開き続け、何度も縫い直し、僕の歯茎は皮膚がなくなりそうになるまでになっていた。僕はトレーナーに毎日、フェイスギアを取らせてくれとお願いした。僕は乱闘しなければ、終わりだと思っていた。終いには僕はおかしくなって、トレーナーに隠れてフェイスギアを外し、アンドリュー・ショーと乱闘するため、氷に出た。

 もちろん、傷がまた開いた。毎日痛み止めを飲む事を考えた。コーチのベリー・トロッツには感謝しきれない。ある日彼が僕に「君が乱闘しようと僕はどうでもいい。君は良い選手だ。早く回復してくれ。」と言われた。
 


 ベリーは僕のリハビリ活動を強く支えてくれた。僕を3セット目に入れてくれた。僕はチェックをして、ポイントを取り、怪我を回復させた。クソみたいに痛かったが、痛み止めは一度も飲まなかった。

 ホッケー選手は、常にチームメイト、コーチにどう思われるか心配する。僕たちは、「病気」という言葉を弱音だと教わり、育てられた。僕はアル中だ。僕は病気だ。だが、僕は今、生きてきた中で一番強く生きている。過去の出来事については全て自分の責任であり、他の誰のせいでも無い。僕は毎日起きて、どう生きるか選択肢がある事に気付いた。『どうやって生きたいか?』 僕はチームメイトと遊ぶ。結婚式に参加する。ビーチに行く。踊って笑って、パーティーへ行く。僕はただ、もうお酒は飲まない。

 僕は今まで無視していた事をするようになった。映画や芸術を勉強し始め、今はロサンゼルスで短編映画を撮影している。プロのホッケーをしに家を出てから、今一番生きている実感がして、幸せを感じている。

 もし、あなたがこれを読んでいて自分自身に問題がある、と思っても、恥らわないでほしい。友達や、チームメイト、家族、リハビリ施設に手を伸ばしてみて欲しい。僕は助けを求めた。君にも出来る。

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リチャード・クローン (Richard Clune)

 1987年4月25日 28歳
トロント、カナダ産まれ

178㎝
98㎏

2003年から2006年までOHLでプレー
・2004年シーズンにはボビー・スミス賞受賞
・2005年にU18でカナダ代表

2006年AHLへトレード

2007年ECHL

2007年から2009年ダラスのAHLチームと3年契約

2009年NHLロサンゼルスへトレード

2010年から2012年AHL

2012年から2014年NHLナッシュビルと2年契約

2015年AHL1年契約
・現在に至る

2015年7月1日水曜日

『乱闘をする理由』- ブランドン・プラスト


 この記事では、欧米アイスホッケーの醍醐味ともいえる、乱闘について。
日本のアイスホッケーでは乱闘になることはありますが、1対1には殆どなりません。欧米アイスホッケーでは日常茶飯事です。
 乱闘をすることにより、ファンを沸かせ、チームを盛り上げます。ただただ怒りのあまりに人を殴っているわけではないし、いつでも乱闘すればいい訳でも無いのです。チームが負けているとき、チームのムードが暗いとき、試合の流れを変えたいとき、大事なチームメイトがやられてしまったとき、色んな理由で、様々な場面で乱闘が起こります。
 
 これはアイスホッケーの伝統であり、誰がなにを言おうと、重要なイベントであり、乱闘をする人は大事な役目を果たしています。アイスホッケーが下手だから、乱闘を担当するわけではなく、彼らは非常に上手です。チームのキャプテンだって乱闘するし、点取り屋でも時には乱闘をします。お互いをリスペクトし合っているからこそ出来る乱闘で、乱闘に美学にも思う人もいるでしょう。(欧米のアイスホッケーファンは殆ど感じていると思う)



ブランドン・プラスト (Brandon Prust)

1984年3月16日生まれ(31歳)
カナダ、オンタリオ州出身

身長:183㎝
体重:88㎏


2004年のドラフトでカルガリー・フレームズに70位で選ばれる。


2002年から2004年まで、OHLのロンドン・ナイツでプレー。
2004年からAHLでプレーをし、2006年にNHLデビュー。
翌年AHLに降格するも、2008年にNHL復帰。

2006年、2008年をカルガリー・フレームズでプレー。
2008年はフェニックスへトレード。
2009年に再びカルガリーへトレードされ、
同年ニューヨークレンジャーズにトレード。
2011年までプレーを続け、2012年にモントリオールと契約。


ホッケー以外の趣味は、ゴルフと野球観戦

叔父はブロードウェイの俳優

高校では多くのスポーツにおいて優秀という賞を2001年に受賞。フットボールで8番だった背番号を今でも付けている。

テレビのアナウンサーと2015年6月に婚約。


 さっそく記事に参りたいと思います。31歳、モントリオール・カナディアンズのブランドン・プラスト選手による記事です。

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 親友の顔面を週何回かのペースで殴ることは、キャリアに驚くべき成果を挙げる。アイスホッケーの*エンフォーサーの場合に限るが。僕がまだ18歳の少年でOHLでプレーしていた頃、大きな悩みを抱えていた。僕はロンドン・ナイツの端役だった。他のみんなの様に上手ではなかったし、乱闘もそう強いわけでも無かった。活躍し、成果を出すには、何かを極めなければいけなかった。
 *エンフォーサーとは、相手に悪さをさせないようにする、いわゆるチームのボディーガード。相手選手が自身のチームのキーパーと接触した時、スター選手が激しいボディーチェックをされたり、うちにそんな事したらタダじゃおかないぞ、と示すように相手選手に乱闘を仕掛ける役目の選手だ。

 始めは、ボディーチェックを極めようと頑張った。問題は、ボディーチェックをした後、毎回、相手の選手達が仕返しにやってくることだ。何度か彼らに「処理」されたあと、僕は親友のクリス・ベインに相談をした。クリスもエンフォーサーだった。

僕は、「なあ、エンフォーサーになろうと思ってる。どうすればいい?」と聞いた。

そして彼に、「まず、何回かやられてみる。そうしたらきっと分かる。」と言われた。

 これは結構適切なアドバイスだった。確かに誰かが乱闘をするのを見たり、本を読んだりするだけでは強くなることは出来ない。実際に、乱闘してみなければいけない。それから毎日練習の後、クリスとグローブを脱いで、リンクの真ん中でちょっとしたスパーリングをするようにした。結果は、読者の想像通りだ。初めはちょっとした遊び感覚で掴み合い、押し合いをしてたが、乱闘の真似をするのはとても難しいことだと、すぐにわかった。僕たちはお互い何回か故意的に殴り合った。クリスには少しでも効いたかどうかはわからない。彼はタフで、頭は石のように固い。

 アイスホッケーファンでない人に、乱闘を知的だと言うと、少々野蛮に聞こえるのは理解できるが、これは路上の一般的な喧嘩とは全く違う。僕たちはスケート靴を履き、少しダボダボなユニフォームを着ている。これには多くの物理学が含まれている。クリスに乱闘について全て教わった。ただ闇雲にパンチをするだけでなく、バランスを保ちながら、テコの原理を理解し、握力なども必要だ。僕は彼に教わった知識をスポンジのように吸収し、多少自らの知識と力で出来るようになってきた。

 だがしかし、僕は干され、シーズンの終わりでジュニアBに送られた。僕は落ち込んだが、元NHLのエンフォーサーであるコーチ;デール・ハンターに、後に僕の人生を大きく変えることになった一言を言った。「チャンスを一回くれ。一回僕を出してくれ。もうベンチにすら戻したく無くなるはずだ。」




 シーズンに入って3試合目、ジュニアAの試合に呼ばれ、それから一試合も逃してない。初めはライト級を相手にし、段々とコツをつかんできた。OHLでの二年目には、ヘビー級と乱闘をするようになっていた。乱闘でNHLに入ったも同然なので、少々偏見も持たれるが、僕には信念がある。NHLを安全なスポーツにするために、乱闘が必要だと。

矛盾するように聞こえるが、説明させてくれ。

 一か月前にアナハイムと試合をしていて、最近のNHLで頻繁に起こりすぎていることが起きてしまった。3ピリでチームのスター選手、マックス・パクシオレッティがパスを出した後、背後からボードにチェックされた。背中を痛め救急車で運ばれたが、審判はペナルティーを取らなかった。確かにルール・ブック通りに行くと、ペナルティーではないかも知れない。

じゃあ、どうすればいい?

 3ピリに入り、2対1のリード。そのシーズン、僕たちは強かった。ウェスタン・コンファレンスのアナハイムは特にライバルである訳ではない。一年に2回ほど対戦するような相手だ。普段、3ピリで点差が狭いと、僕は乱闘はしない。ペナルティーボックスで羞恥な気持ちで座ったたまま、試合終了のブザーを聞きたくないからだ。リンクに出ていたい。だが、マックスは僕たちにとってスター選手で、彼は背後から潰された。

 僕の中の一人は、まだ試合に出ていたい。もう一人は、復習を望んでいる。ベンチで座りながら、「このことを水に流すこともできるが、さっきのようなチェックを見て見ぬふりをしたら、他のチームにどう思われるか。」と考えていた。

 水に流すことは出来なかった。マックスをチェックした相手に向かい、乱闘を仕掛けた。僕はそんなに野次を飛ばす方ではない。まあ、「黙れ」とかは言うが、常に相手をイラつかせたりする為にペラペラ喋ったりはしない。僕はやるときはやる。相手のママについて悪口を言ったりする事に意味がない。物事にはやり方がある。幸い、僕はその試合、乱闘が出来た。相手にも、他のチームにも僕たちのスター選手にあんなことはしたらただじゃ済まないぞ、と証明する事が出来た。
 
 そして、みんなはそれに対して、敬意を払った。エンフォーサー群は、相互に敬意を持っている。敬意を払わない奴らは「ネズミ」と呼ばれている。ネズミは相手に一つも敬意を払わない。相手のスター選手に飛びつき、キーパーとわざと接触する。そして乱闘はしない。タフな男を演じるが、本当のタフな男が来ると、逃げていく。

 ネズミがいると、チームに不利だ。ネズミが乱闘に答えない時、場の空気がもの凄く悪くなる。リンク全体の雰囲気が悪くなる。もし乱闘自体が存在しなければ、ネズミたちは試合中ずっと敵チームのスター選手に理由もなく飛びかかり続けるだろう。ネズミが乱闘を断れば、自身のチームの流れを止めることにもなる。

 1つの乱闘で、みんなが知らない色んな事が起きている。「お前に腹が立っている。乱闘するぞ」という事ではない。時にはそうだが、ほとんどの場合、乱闘には戦略がある。エンフォーサーは本当に賢く、自身のチームが流れに乗っていて、乗り続ける必要があれば乱闘は絶対にしない。時には相手のエンフォーサーにお願いを聞いてもらい、借りを作ってもらう時もある。


 一例をあげると、何ヵ月か前にフィラデルフィアのザック・リナルドと乱闘をした。僕たちのチームは3対0で勝っていた。僕が乱闘する理由など一つもないが、乱闘をした。なぜかと言うと、彼が賢かったからだ。彼は僕を押し、叩き、誘っていた。それをすることによって、場面を作りあげていたのだ。場内のみんなが乱闘が始まるとわかった。ベンチのみんなもわかっていた。テレビのアナウンサーには、なぜ喧嘩を買ったのかと聞かれたが、その場面では買わざるを得なかった。リスクはもちろんあったが、乱闘は負けるより、断る方が恥ずかしい。これは借りだ。今度フィラデルフィアで、0対3で負けている場面があれば、彼は借りを返してくれるだろう。

 借りの事は、みんなはちゃんと覚えている。

 ホッケーファンの中でも乱闘が嫌いな人がいるのを知っている。近年NHLでは、脳震盪など頭の怪我をとても重大視している。しかし乱闘は不当な暴力ではない。もし乱闘が無くなれば、選手同士が汚い潰し合いが相次ぎ起こる事態になるだろう。もし、怪我をさせてしまえばサスペンションになるだろうが、4セット目の選手にとって、失うものは少ない。特にプレーオフでは、相手のスター選手を潰して怪我をさせれば、シリーズの結果もガラリと変わるだろう。彼らは乱闘をする必要がない。もしタフな男に復讐をされないのであれば、多くの選手がオープンアイスで怪我をすること間違いない。

 これは本当に確かか?僕もエンフォーサーとして、よく考える。相手のチームに僕を一秒で突き飛ばしてしまうような選手がいれば、試合中、その選手にチェックをすることを少し躊躇してしまう。僕も人間で、怪我をするのは怖い。だから乱闘は試合の序盤に多いのだと思う。みんなすぐ済ませてしまいたいのだ。1シフト目の乱闘は大好きだ。

 グローブを脱いだ瞬間に、他の事が見えなくなる。ファンの声援も聞こえない。審判の声も聞こえない。静寂だ。それもまだいい方だ。一番辛いのは、本当にタフな選手がいるチームと試合する前の日だ。一日中その事しか頭になく、感情という名のジェットコースターに乗る。ホッケーの試合そのものに関しては少しも考えられない。昼寝もまったく出来ない。

 これは決して悪い事ではない。僕はきちんと準備を整え、少し緊張しているとき、いい乱闘が出来る。もし乱闘に心配なく挑んでいる場合は、よく準備をしていないという証拠だ。戦うであろう相手選手の乱闘のビデオを観て、どんなパンチをするか、どんな戦略があるか、研究する。どっちの手を使うか、どんな時に利き手を変えるか、ユニフォームを掴むか。僕は183cm、88㎏しかない。許容誤差の範囲は狭い。取っ組み合いを出来なかったら、パンチしても、3インチ程届かない可能性がある。そして、顔を7針縫うことになる。


 非常にストレスが溜まりやすい仕事だが、僕は純粋に味方をかばう時の気持ちが好きだ。ルーキーだった時、これを仕事にすると決意した時から、記念品としている写真がある。初めてのエキシビジョンの試合のとき、エドモントンの巨人、J.S.ジャックスと乱闘をした事がある。彼に頭の横を何回か殴られ、顔と耳が血だらけになっている写真だ。なんでこんな写真が記念品かって?ネタとして、そして、この仕事を甘く見たらどうなるか、と自分に言い聞かせ続けるためだ。

 今年の夏、完璧とも言える座右の銘を目にした。通っているジムのトレーナーのオフィスにあった。



『勇気とは、恐怖の不備ではなく、その恐怖に対する行動のことだ。』

“Courage isn’t the lack of fear, but action in spite of it.”


 決して、努力は必ず報われる訳ではない、といった意味ではない。去年のプレーオフで、今までに感じたことが無い感情を覚えた。僕が前に属したチームであるレンジャーズとのシリーズ、0勝2敗だった時のこと。今でもみんなと仲が良かった。GK:ヘンリック・ランクヴィストは僕の親友の内の一人で、そのシリーズでは実に絶好調だった。僕は、どうやってペナルティー無しで彼に接触するか、彼をどうやって苛立たせるか、殴ったりしなきゃいけないのか、と考えた。だって、彼は僕の秘密をいくつも知っている。ヤバい事を幾つか暴露されるかもしれない。

 スタンレーカップを勝つために、どんなことでもする。氷上では友情など皆無だ。レンジャーズで僕に乱闘を仕掛ける人はいない。試合に出て、たくさんチェックをして、試合を荒し、誰かに乱闘を仕掛けさせなければいけない。1シフト目、ブルーライン上で青のユニフォームがパスをしたのを見て、力いっぱいチェックをした。彼は僕を見ていなかった。彼は立ち上がらなかった。遅いチェックだったのは自分でもわかった。わからなかったのは、それはデレック・ステファンだったこと。レンジャーズで仲がいい人の内の一人だ。彼は顎を骨折した。
 

 試合が終わってすぐ、ステフ(ステファン)に大丈夫かと、メールをした。少し感情的になった。人生色々ある。友達であることで、お互い敬意があり、怪我をさせたかった訳じゃなかったという事をわかっていれば幸いだと思った。彼は1ヵ月間、固体を口にすることが出来なかったが、あのタフな野郎はその試合にフェイスガードを付けて戻ってきた。ゲーム5では、2ゴールを決めた。
 
 そのシリーズはレンジャーズが勝ち、最後に列になってステフと握手したとき、僕たちはハグをして、和解をした。これがホッケーだ。ずっとこのままであって欲しい。