最近、嫌なニュースを多く目にします。
ストレスなど、色々な事情があるかと思います。
人間には「恥」と言ったとても複雑で面倒くさい感情が付いています。
助けを求めたいが、立場上、男だから、約束したから、恥ずかしいから、といった理由で
助けを求めることが出来ず、最悪の場合「死」といった究極な選択をしてしまう時があります。
助けを求めることが出来ず、最悪の場合「死」といった究極な選択をしてしまう時があります。
死ぬより、立場を失う事の方が怖いのでしょうか。
死ぬより、男らしさを捨てる事方が怖いのでしょうか。
死ぬより、男らしさを捨てる事方が怖いのでしょうか。
死ぬより、約束を破る方が怖いのでしょうか。
死ぬより、恥ずかしい方が怖いのでしょうか。
考えすぎていると、舞い上がってしまう時があります。
酔っぱらっていると、舞い上がってしまう時があります。
考える事、お酒を飲む事は決して悪いことではありません。
ただ個人が抱えてるその問題が、最悪な状態な時に、
一人で考える、お酒を飲んで、舞い上がってしまう事は本当に怖いです。
日本ではマイナーなスポーツ;アイスホッケーを通してですが、
アルコール、薬物中毒という問題を通して、
アイスホッケーが関係無くても、問題がアルコール、薬物では無くても。
今、小さな問題、大きな問題、どんな問題でも抱えている人に読んで頂きたい。
この記事はNHLを4シーズン経験した現AHL選手のリチャード・クローン選手による、自叙記事です。
少々長いですが、今問題を抱えている方、
もしくは、そういった状況に置かれている人を知っている方、全ての方に読んで欲しい記事です。
問題を抱えることについて、そしてそれの解決方法について。
この記事をキッカケに少しでもみなさんの問題が解決に近づくことを願って、投稿致します。
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クリニックのナース達は笑っていた。それほど酷い状態だった。NHLで初めてプレーオフを経験した数週後のことだった。23歳で夢の舞台に立ち、良い給料を貰いながら、僕はもうどうすることも出来ず、自分が倒れて死んでしまうか、誰かを殺してしまいそうな状態だった。
予約の電話はしなかった。ロサンゼルスから、弟が大学に通っているボストン行きの飛行機に乗り、空港まで迎えに来てもらった。僕はただ「準備は出来た」と言った。弟にそこから10時間離れたトロントまで送ってもらった。リハビリ・センターまで。2年前来たのと同じ場所だ。2年前は4日間泊まり、「こんなの狂ってる!もう出て行く!」と叫んで、それっきりだ。受付に着くと、みんなは僕の事を覚えていた。きっと前に大きな印象を与えたからだ。みんなは笑っていた。僕が正気だと思っていないみたいだった。僕はここで初めて自分が抱えている症状を認め、泣き崩れて言った。「僕はアル中だ。薬中だ。本当だ。助けてくれ。」
天使はすぐに降りて来る事はなかった。バイオリンのクラシック音楽が流れ、フカフカな枕がある真っ白な部屋に放り込まれることは無かった。受付嬢に「書類を上に回すまで数日掛かります。」と言われた。自分の状態を認め、吐き出せた事で、僕が肩に抱えていた重すぎる荷物はすでに下されていた。デトックスのため病院へ送られ、3日間、書いてはいけない様な事を叫び、震え、吐き続けた。
この時点で、もう読者のみんなは僕に偏見を持っているだろう。ツイッターやメディアでNHLの選手がアルコールや薬物で苦しんでる、と読んだことがある。彼らのストーリーは語れないが、僕のを伝えようと思う。
以前の僕は、練習から帰り、昼食の頃にはお酒を飲み始めていた。ジュニアでプレーしていた頃から、NHLデビューした頃まで、オフの日には起きたらすぐ飲酒をしていた。毎日マリファナも吸っていた。19歳になった頃には、週1のペースでコカインを使っていた。オンタリオ、ニューハンプシャー、ロサンゼルスのバーで僕が笑ってジョークを言ったりしていたのを見た人は「見ろよ、幸せそうだな。」とでも言っていただろう。
僕が朝5時に起きた時、枕が血だらけになっていた事なんて知りもしなかっただろう。
次の日の練習には、笑顔で向かい、世界トップレベルでホッケーをした。何故こんなことをしたのか。僕は決して昔からこんな野蛮な人間だった訳ではない。高校では個人で芸術の授業を受け、タランティーノの映画を観るような子供だった。僕はハーバード大学でプレーをするはずだったが、親に頭を下げ、OHLに入った。そこで僕は母親と【絶対に乱闘をしない】と堅い約束をした。(当時のコーチは僕が乱闘しないことでいつも怒っていた。)OHLでは最も勤勉な選手に与えられるボビー・スミス賞を受賞した。僕はこれらの事を毎日、泥酔状態でこなした。飲むときは殆ど部屋で、一人で飲んでいた。
僕は決して特別な存在ではない。今も、NHLで苦しんでいる選手はたくさん居て、ポイントの統計や練習での動きなどで見分ける事は出来ない。僕が19歳だった頃、リンクの外では落ちぶれていたが、30ゴールと80ポイントを挙げていた。数年を共にしたチームメイトやコーチには少々疑われていたが、誰も状態がここまで最悪だった事には気付いていなかった。僕はただ荒々しかった。ホッケーのチームには何人かは必ずいる。AHLで過ごした2008年のシーズンで、ダラス・スターズにドラフトされ、4日間続けてコカインでハイになっていた。ひと夏で7,8キロ痩せ、万事休す。家族会議が開かれ、もう逃れることは出来なかった。2人の弟の表情は忘れられない。僕は彼らにとってヒーローであり、親友であり、リーダーだった。そしてその時彼らの目には、怯えが見えた。
何回失敗をした、犯罪を犯した、家族を泣かせた、なんて関係ない。何回チームメイトに「おしまい。もうやめる。」と伝えたかなんて関係ない。本当に良くなりたい、と思って行動に移すまでは、誰が何を言っても変わることは出来ない。
その夏初めてリハビリ・センターに入ったが、僕は自分はアル中だと自覚がなかった。アル中は公園のベンチで気絶している様な人の事だと思っていたからだ。カウンセラーと面会するたび、「リッチ、お父さんとの関係について教えてくれないか?」や「リッチ、最後に泣いたのはいつ?」などと聞かれた。ホッケー選手として、正直に話を出来る話題の領域を遥かに超えている。僕たちホッケー選手は、弱音を吐かない、痛みを見せない様に育てられたからだ。足が折れていたって、「よけろ、俺は出る」とトレーナーに怒鳴る。
そして僕はカウンセラーと喧嘩をし、4日でその場を去った。
読者のあなたはきっと、携帯やパソコンで今これを読んで、なんで?どうして?小さい頃から夢見た事を現実にさせて、全て台無しに出来るんだ?と思っているだろう。
僕は怖かったからだ。僕は常に恐怖と隣合わせで生きていたからだ。まだ若くてバカだった頃から始まる。16歳の時にOHLに入るため家を出た。チームメイトのみんなは、僕は2,3歳上の人たちだけだった。髭を生やしていた。みんな男だった。この頃はまだ、指導上での暴力に対して甘い時代だった。幸い、チームメイトの一人、ダニエル・カーシロが僕を守ってくれた。暴力が行き過ぎないように毎回気を配ってくれていた。彼には感謝しきれない。だがすぐに、ジュニアの文化のようなもの、飲酒や男らしさという美学に制圧された。日曜の試合の後はバーで飲んでいた。僕は16歳だった。今16歳の少年を見ると、「小さい人間だな。僕はいったい何をしていたんだろう。」と思う。僕は仮面を被り、恐怖と戦った。
一番怖いのは、19歳だった時に僕は、自分がかつて一番嫌いだった人間になっていた事だ。僕は年上になり、ルーキーの少年達に色んな事をさせていた。一度仮面を被ってしまうと、もう取れない。ドラフトされて契約を結んだ時、契約のプレッシャーと戦うために仮面を被った。契約が終わると、相手の195㎝の怪物と乱闘しなければならない恐怖と不眠症と戦うため、仮面を被る。やっとNHLのジャージを着た時は、一瞬で全て終わってしまうかも知れないという絶え間のない恐怖と戦うために、また仮面を被った。
そしてある日、彼は起きた。ロサンゼルスのGM;ロン・ヘクスタールに「リッチ、誰か助けてくれる人を紹介しようか?」と言ってくれた時ではない。両親にお願いされた100万回目の時でもない。映画の様にはいかなかった。ある日突然目を覚ました。もううんざりだった。
多くの選手たちは残念な結果になってしまった。僕たちはこれまでに、憂欝の闇、薬物や飲酒で多すぎる程の男たちを亡くしてきた。スティーブ・モンタドール、リック・ライピエン、デレック・ブーガード、ウェイド・ビーラック。僕は彼らの多くを良く知っていた。彼らとは何度も乱闘をした。彼らの多くの本当に良い人たちだった。僕は彼らに近親感を抱いていた。僕がファイターだったからではない。僕は生まれつきファイターだった訳ではない。彼らもだ。誰も少年の頃にストリート・ホッケーをして、ファイターとしてスタンレーカップを優勝する夢なんて見ていなかったはずだ。みんな、決勝のゴールを決める事を夢見ていたはずだ。
だがしかし。人生は邪魔をする。育つ環境によって変わってしまう。僕が7歳だった頃、ほぼ毎日放課後にストリート・ホッケーをしていた。町内の少年、みんなが集まった。7歳から13歳位の少年達だ。冬になり、緑石側まで雪が積もれば、ボディーチェック有りの実践的なホッケーをした。雪山の横を通れば、ボールを持っていなくてもぶっ飛ばされた。当時7歳だった僕は13歳の少年に毎日毎日チェックされていた。僕は毎日泣きながら帰宅した。
ある日の午後、雪の山に飛ばされて100回目の時、僕の中で何かが切れた。立ち上がり、僕は彼に走り寄り、背後からスティックで思い切り足をスラッシュした。13歳の少年は倒れ、泣き叫んだ。試合は中断され、みんな僕を悪魔であるかの様に睨んだ。僕は全速力で家に走り、部屋にこもった。
その晩、父親がそれを知り、ひどく叱られ、みんなの前でその13歳の少年に謝らせた。僕は父の表情が変わったのを見た。父は僕に謝らせていたが、僕が年上のいじめっ子に立ち向かった事を誇らしく思っていた。他の少年達の表情も同じように変わった。
それから、誰も僕をいじめるような事はなかった。これが僕のフィジカルなスタイルの始まりだった。誰もファイターとして生まれてこないが、環境によって変わる。
僕はファイターになんてなりたくなかった。野蛮な男にも、いじめにもなりたくなかった。もちろん、アル中になんかなりたくなかった。だが僕らはみんな生き残るために仮面を被る。何百人ものホッケー選手がこれを読むだろう。高校生、ジュニアの選手、大学生、マイナーリーグ、NHLの選手で毎日飲酒であらゆる恐怖を制圧させている人たち。もしあなたがその人であれば、僕が書いた言葉が、あなたが助けを求めるキッカケになる事は無いだろう。だが、一度地獄に落ちて戻ってきた人間の僕が言う事を聞いてほしい。僕はもう5年シラフだ。僕がこうである事に対し、NHLのロッカーでも、どこでも、文句を言ったり差別された事は一度もない。
これは嘘じゃない。
ナッシュビル・プレデターズでの一年目、僕は完全にシラフだった。何試合目かに、僕は口元にエルボーを食らった。歯が一列折れた。30針を縫った。物を口にするたびに叫びたくなるほど痛かった。寝られなかった。考える事も出来なかった。イブプロイフェン(腫れ止め、炎症止め)は全く効かなかった。シラフで居続けたかった為、痛み止めは拒否した。麻酔として、あへん剤を使う事も出来たが、キッカケになってしまうのが怖くて使わなかった。発狂してしまいそうだった。
僕は仕事を失うのがとても怖かった。医者には1ヵ月間フェイスギアを付けるよう命じられた。それはNHLの暗黙のルールで、乱闘が出来なかった。プレデターズにはファイターとして雇われ、それが僕の役目だった。毎日記者には、フェイスギアはいつ取れるんだ、と聞かれた。
僕は歯医者にリンクまで来てもらい、麻酔を打っていた。「どうなってもいい、口を閉められるようにしてくれ」、と言った。残念な事に、傷が開き続け、何度も縫い直し、僕の歯茎は皮膚がなくなりそうになるまでになっていた。僕はトレーナーに毎日、フェイスギアを取らせてくれとお願いした。僕は乱闘しなければ、終わりだと思っていた。終いには僕はおかしくなって、トレーナーに隠れてフェイスギアを外し、アンドリュー・ショーと乱闘するため、氷に出た。
もちろん、傷がまた開いた。毎日痛み止めを飲む事を考えた。コーチのベリー・トロッツには感謝しきれない。ある日彼が僕に「君が乱闘しようと僕はどうでもいい。君は良い選手だ。早く回復してくれ。」と言われた。
だがしかし。人生は邪魔をする。育つ環境によって変わってしまう。僕が7歳だった頃、ほぼ毎日放課後にストリート・ホッケーをしていた。町内の少年、みんなが集まった。7歳から13歳位の少年達だ。冬になり、緑石側まで雪が積もれば、ボディーチェック有りの実践的なホッケーをした。雪山の横を通れば、ボールを持っていなくてもぶっ飛ばされた。当時7歳だった僕は13歳の少年に毎日毎日チェックされていた。僕は毎日泣きながら帰宅した。
ある日の午後、雪の山に飛ばされて100回目の時、僕の中で何かが切れた。立ち上がり、僕は彼に走り寄り、背後からスティックで思い切り足をスラッシュした。13歳の少年は倒れ、泣き叫んだ。試合は中断され、みんな僕を悪魔であるかの様に睨んだ。僕は全速力で家に走り、部屋にこもった。
その晩、父親がそれを知り、ひどく叱られ、みんなの前でその13歳の少年に謝らせた。僕は父の表情が変わったのを見た。父は僕に謝らせていたが、僕が年上のいじめっ子に立ち向かった事を誇らしく思っていた。他の少年達の表情も同じように変わった。
それから、誰も僕をいじめるような事はなかった。これが僕のフィジカルなスタイルの始まりだった。誰もファイターとして生まれてこないが、環境によって変わる。
僕はファイターになんてなりたくなかった。野蛮な男にも、いじめにもなりたくなかった。もちろん、アル中になんかなりたくなかった。だが僕らはみんな生き残るために仮面を被る。何百人ものホッケー選手がこれを読むだろう。高校生、ジュニアの選手、大学生、マイナーリーグ、NHLの選手で毎日飲酒であらゆる恐怖を制圧させている人たち。もしあなたがその人であれば、僕が書いた言葉が、あなたが助けを求めるキッカケになる事は無いだろう。だが、一度地獄に落ちて戻ってきた人間の僕が言う事を聞いてほしい。僕はもう5年シラフだ。僕がこうである事に対し、NHLのロッカーでも、どこでも、文句を言ったり差別された事は一度もない。
これは嘘じゃない。
ナッシュビル・プレデターズでの一年目、僕は完全にシラフだった。何試合目かに、僕は口元にエルボーを食らった。歯が一列折れた。30針を縫った。物を口にするたびに叫びたくなるほど痛かった。寝られなかった。考える事も出来なかった。イブプロイフェン(腫れ止め、炎症止め)は全く効かなかった。シラフで居続けたかった為、痛み止めは拒否した。麻酔として、あへん剤を使う事も出来たが、キッカケになってしまうのが怖くて使わなかった。発狂してしまいそうだった。
僕は仕事を失うのがとても怖かった。医者には1ヵ月間フェイスギアを付けるよう命じられた。それはNHLの暗黙のルールで、乱闘が出来なかった。プレデターズにはファイターとして雇われ、それが僕の役目だった。毎日記者には、フェイスギアはいつ取れるんだ、と聞かれた。
僕は歯医者にリンクまで来てもらい、麻酔を打っていた。「どうなってもいい、口を閉められるようにしてくれ」、と言った。残念な事に、傷が開き続け、何度も縫い直し、僕の歯茎は皮膚がなくなりそうになるまでになっていた。僕はトレーナーに毎日、フェイスギアを取らせてくれとお願いした。僕は乱闘しなければ、終わりだと思っていた。終いには僕はおかしくなって、トレーナーに隠れてフェイスギアを外し、アンドリュー・ショーと乱闘するため、氷に出た。
もちろん、傷がまた開いた。毎日痛み止めを飲む事を考えた。コーチのベリー・トロッツには感謝しきれない。ある日彼が僕に「君が乱闘しようと僕はどうでもいい。君は良い選手だ。早く回復してくれ。」と言われた。
ベリーは僕のリハビリ活動を強く支えてくれた。僕を3セット目に入れてくれた。僕はチェックをして、ポイントを取り、怪我を回復させた。クソみたいに痛かったが、痛み止めは一度も飲まなかった。
ホッケー選手は、常にチームメイト、コーチにどう思われるか心配する。僕たちは、「病気」という言葉を弱音だと教わり、育てられた。僕はアル中だ。僕は病気だ。だが、僕は今、生きてきた中で一番強く生きている。過去の出来事については全て自分の責任であり、他の誰のせいでも無い。僕は毎日起きて、どう生きるか選択肢がある事に気付いた。『どうやって生きたいか?』 僕はチームメイトと遊ぶ。結婚式に参加する。ビーチに行く。踊って笑って、パーティーへ行く。僕はただ、もうお酒は飲まない。
僕は今まで無視していた事をするようになった。映画や芸術を勉強し始め、今はロサンゼルスで短編映画を撮影している。プロのホッケーをしに家を出てから、今一番生きている実感がして、幸せを感じている。
もし、あなたがこれを読んでいて自分自身に問題がある、と思っても、恥らわないでほしい。友達や、チームメイト、家族、リハビリ施設に手を伸ばしてみて欲しい。僕は助けを求めた。君にも出来る。
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リチャード・クローン (Richard Clune)
トロント、カナダ産まれ
178㎝
98㎏
2003年から2006年までOHLでプレー
・2004年シーズンにはボビー・スミス賞受賞
・2005年にU18でカナダ代表
2006年AHLへトレード
2007年ECHL
2007年から2009年ダラスのAHLチームと3年契約
2009年NHLロサンゼルスへトレード
2010年から2012年AHL
2012年から2014年NHLナッシュビルと2年契約
2015年AHL1年契約
・現在に至る
以前彼とは何度か話したことがあるのですが、ちょっと変わった人という印象で、私が日本人ということで腕の芸者のタトゥーを見せられた記憶があります。
返信削除その時の印象として「いい人だけど精神的にもろそう」と直感的に思ったんですが、こういう背景があったと知って納得しています。
遅くなりましたが、翻訳ありがとうございました。
もしお時間がありましたら、ジョン・スコットやズッカレロの記事もお願い致します。